@ITの「エンジニアライフ」で人気コラム「プログラマで、生きている」を執筆しているフリーランスプログラマーのひでみさん。そもそも、ひでみさんがプログラマーになったのには深い理由があった。今回、ひでみさんがプログラマーになったいきさつから、フリーランスプログラマーになるまでの道のりについて伺った。
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生涯プログラマー宣言をし、@ITの「エンジニアライフ」で人気コラム「プログラマで、生きている」を執筆しているフリーランスプログラマーのひでみさん。
そもそも、ひでみさんがプログラマーになったのには深い理由があった。今回、ひでみさんがプログラマーになったいきさつから、フリーランスプログラマーになるまでの道のりについて伺った。
ひでみさんがIT業界の道を選んだのは、父の勧めによるものだった。
小さいころからよく転ぶ子だった。そこで10歳になるころ医者に診てもらうと、「足の骨の形が悪く、20歳になるまでに歩けなくなるかもしれない」と宣告された。以来、母親は娘の足を心配し「走るな、跳びはねるな」と、事あるごとに注意するようになった。しかし、父親のアプローチは少し違った。
「ある日、父は他の兄弟を部屋に置いたまま私を一人庭に連れ出し、医師から言われたことを話し始めました。そして『お前は将来歩けなくなるかもしれないから、若いうちに手に職を付け、一生食えるようにしておけ』と言われました。10歳児に向かって、かなり現実的なアドバイスでしたが、よく考えると、普通ならこういうときって『俺が一生面倒見てやるから心配するな』みたいな言葉をかけるんじゃないかな、って思いました(苦笑)」
この父親の先を見据えたアドバイスが、後々、ひでみさんの進路を決めることになる。
高校に進学したひでみさんは卒業後の進路を決める段階になり、漠然と「本が好きだから書店の店員になりたい」と考えていた。しかし、友人から「書店員は、重たい本を運ぶことが多く、足腰に負担がかかるから難しいのではないか」と指摘された。
このとき「やりたい仕事」から「できる仕事」に視点を移すようになった。しかし自分にできる仕事で、かつ、歩かなくてもできる仕事は、なかなか思い付かなかった。
ひでみさんは、そこで再び父親の言葉を思い出した。20歳でいきなり歩けなくなるわけではなく、「歩けなくなるまでに、家で仕事ができるようにしろ」というのが父の言葉だった。
「経理とか税務とか、いわゆる士業も考えました。しかしそうした職業に就いている人は多く、上が詰まっていることは明白です。その状況で20歳になるまでに『そこそこの経験』を積めるかどうかは疑問でした。そんなとき、プログラマーという仕事があることを知りました」
当時は、まだ現在のようにコンピュータが身近な機器ではなく、巨大な筐体に収められ、企業や学校の電算室に置かれていた時代だったが、ひでみさんの高校にも、電子専門学校からの進学案内が届いていた。ひでみさんは、その案内を読み、初めてプログラマーという仕事があることを知った。
プログラムを作るというと難しい数学の知識が求められるのではないか。文系の自分に果たして務まるのだろうか。さまざまな不安はあったものの「これからの仕事」という点が、電子専門学校に進学するという、ひでみさんの決断を後押しした。
「まだプログラマーを目指す人が少なかった時代なので、この仕事なら、短い期間にいろいろな経験が積めるのではないかと考えました」
ひでみさんが選んだのは、コンピュータグラフィックス科だった。
「入学時に、開発言語について、COBOLかFORTRANかを選べと言われました。コンピュータ自体がよく分かっていないのに、選べるはずもありません。現在のようにネットで調べるわけにもいかず、困り果てていました。ですが、地道に調べていくと、FORTRANは科学技術計算分野に強く、コンピュータグラフィックスを利用した建築シミュレーションなどにも使われていました。父親の仕事が土建業だったことから、少しでも関わりがありそうな学科を選びました」
晴れて専門学校に入学したひでみさん。だが、キーボードも初めてなら、プログラミングも初めて。何がどうなっているのか、さっぱり分からず、苦戦したという。
「情報が“点”で存在している感じでした。無数の点はあるけれど、その点と点の間がつながらない。そんな状態が卒業まで続きました」
今ほどカリキュラムがこなれていなかったということもあるのかもしれない。専門学校の同級生たちの中には、卒業後に非IT系の道に進む人も少なからずいたという。
しかし、ひでみさんは初志貫徹し、システム開発会社に就職する。
ひでみさんは入社後、CADを使う会社で電力会社の鉄塔のシミュレーションをこなしていった。送電用の鉄塔は、どこに建てるかで高さや形状も一つ一つ異なるため、構造に基づいた強度計算が必要だった。
「上長がフローチャートをきちんと作ってくれたので、分からないなりにプログラミングができてしまったんです(苦笑)。高校で学んだ三角関数や行列、ベクトルの知識が役に立ちました」
当時のプログラミング環境は、3人に1台の端末が割り当てられ、端末の順番待ちの間にコーディング用紙にコードを手書きし、端末が空くとそれを入力するといったものだった。コンパイルは一晩かかった。
プログラミング言語はCを使うようになっていたが、当時はC言語の開発者であるブライアン・カーニハンとデニス・リッチーが書いた書籍『プログラミング言語C』(通称「K&R」)ぐらいしか解説書がなく、これを頼りに覚えるのが大変だったという。
端末を自由に触れない中、「トライ&エラーというよりは当たって砕けろ」という状態で意地になって手書きでコードを書き続けていたひでみさん。するとある日突然に今まで点としてしか認識していなかった知識が“線”としてつながったという。
「プログラミングを始めて5年。目の前が急に開けたような感覚を受けました」
そこからプログラミングの面白さに目覚め、どんどんのめり込んでいった。ひでみさんのプログラマーとしての基礎は、この時期にしっかりと築き上げられたといってもいいだろう。しかし、そんなひでみさんにも、会社を去らねばならない日が訪れた。
足の具合が悪化して、という理由ではなかった。職場のリーダーともめて、ケンカして退職したのである……。
「本当に頭にきて『プログラマーはもういいや』と思いました(苦笑)」
「20歳までに手に職を付ける」という話もどこかへ吹き飛ぶほど「頭にきた」らしい。いや、そもそもこの時点で、ひでみさんは20代半ばになっていた。
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