「Apple II」に「Lisa」、そして「Macintosh」 私の青春はAppleとともにあったGo AbekawaのGo Global!〜アンドリューさんFrom米国(前)(1/2 ページ)

グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はClarisでプロダクトマーケティングとエバンジェリズム担当ディレクターとして活躍するAndrew LeCates(アンドリュー・ルケイツ)さんにお話を伺う。昔からオタク気質で、朝から晩までコンピュータをいじっていたアンドリューさんが「データベース」に魅了されたきっかけとは。

» 2024年04月30日 05時00分 公開

 国境を越えて活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回はClarisでプロダクトマーケティングとエバンジェリズム担当ディレクターとして活躍するAndrew LeCates(アンドリュー・ルケイツ)さんにお話を伺った。世界中にMacintosh(Mac)が広がりつつある時代に、アンドリューさんはどんな未来を想像していたのか。

 聞き手は、AppleやDisneyなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。

一言で言えば「オタク」でした

阿部川 “Go”久広(以降、阿部川) (背景を見て)後ろにあるのは「Macintosh Plus」ですね、懐かしいです。

Andrew LeCates(アンドリュー・ルケイツ 以下、アンドリューさん) ええ、「Apple II」も持っていましたが、私の最初のMacといえばこちらです。

画像 インタビューに答えるAndrew LeCates(アンドリュー・ルケイツ)氏。左下がMacintosh Plusですね

阿部川 私も(Macintosh Plusを)持っていました。いやー、懐かしい。私がAppleに入社したのは1992年のことですが、アンドリューさんの入社はいつですか。

アンドリューさん 1990年です。入社したときのCEOはジョン・スカリーでした。

阿部川 これまた懐かしい名前ですね。1990年ごろもコンサルタントとしてAppleと仕事をしておりましたので、きっとどこかでお会いしていますね。さて、ご出身はペンシルバニア州ですか。

アンドリューさん はい。ヨークという街で生まれました。ボルチモア州のメリーランドに近いところです。

阿部川 現在はどちらに?

アンドリューさん ジョージア州です。1990年にClaris入社したと同時に引っ越し、そこですぐに美しい女性と恋に落ちて結婚しました。それ以来ずっとここにいます(笑)。

阿部川 それ以上の幸せはないですね、素晴らしい。小さいころのお話を教えてください。どんなお子さんでしたか。

アンドリューさん 一言で言えば「オタク」でした(笑)。いろんな道具やゲームで遊ぶのが好きでした。ちょうどさまざまな小型のデバイスが市場に出てきた時期で、米国では、手のひらサイズの野球ゲームがはやっていました。画面(スクリーン)もなく、光っているボタンを押すだけのとても単純なものでしたが、はまりましたね。

 その後はMacintoshが出ましたので『Wizardly』で遊びました。ああ、『ルービックキューブ』も好きでした。成長してからは 碁にも興味を持ちました。それは今でも続いています、腕は一向に上達しませんがね(笑)。(コンピュータ上のカメラを上に向けて、背景の本棚の上を指さして)ほら、ご覧になれるでしょう(といって、碁盤を指さす)。昔ほどではないですが、時々打っています。


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Wizardlyといえば「*おおっと*」と「*いしのなかにいる*」ですね、懐かしい(世代は微妙に違いますが)。近所のお兄さんが遊んでいるのを後ろから見ていました。調べたところApple IIでも動作したようです。きっと当時コンピュータを持っている人は誰しも知っているゲームだったのでしょうね。


阿部川 周りに碁を打つ方はいますか? それともオンラインで対戦するのでしょうか。

アンドリューさん 大抵はオンラインですね、手軽なので。近所にジョージア工科大学があるので、碁を趣味にする学生のグループを誘って一緒に打つこともあります。

高校で「コンピュータオタク」に進化

阿部川 中学、高校に進んでもその“オタク気質”は変わらなかったんでしょうか。

画像 阿部川 “Go”久広

アンドリューさん そうですね(笑)。高校のとき、Appleの「Lisa」が発売されました。学校に何台かのLisaが導入されたので、そこからは朝から晩までコンピュータをいじっていました。授業でもコンピュータに関連したものはありましたが、基本的には独学でどんどん勉強を進めました。最初に学んだプログラミング言語は「Basic」です。この“小さな箱”の持つ魔法のようなものに魅了され、その世界に没頭しました。同時にいろんなイメージが浮かびましたし、さまざまなものを創り出すことができることが楽しかったです。

阿部川 将来はエンジニアになりたいなどと考えることはありましたか。

アンドリューさん 当時はそこまで具体的には考えていませんでしたね。「これが自分の仕事ならいいな」と思い始めたのは大学生のころです。大学(ぺンシルバニア州立大学)に入学し、生物化学の医学進学過程にいたころはMacintoshにとにかくはまっていて、Appleにインターンもしていました。その経験を生かし、大学にMacintoshが導入されたときには、マシンの設置やプリンタとの接続、ネットワークなど、いろいろとサポートしました。

 インターンなので給与はそこそこですが、大好きなテクノロジーに毎日触れることに満足していましたし、優先的にMacintoshやプリンタを使えるという利点もありました。ですから、宿題などでも、非常に質の高い提出物を作ることができて、教授陣がびっくりしていました。


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本文では分かりやすく「インターン」としましたが、当時Appleでは「Student Rep」(学生従業員)と呼ばれていたそうです。「職業体験」というより「働き手」として捉えられていたことが分かりますね。私の大学でインターンといえば職場体験のニュアンスが強かったので、こうした給料がもらえるインターンもやってみたかったと思いました。


阿部川 当時のレーザープリンタは本当に高価でしたよね。漢字のベクターフォントを搭載した「NTX-J」(Apple LaserWriter II NTX-J)でしたね。コードネームは「Yoda」。

アンドリューさん 重くて(値段の)高い製品でしたね(笑)。当時は、ドットマトリックス型プリンタが主流でしたから、私がレーザープリンタで出力したレポートを提出しても、教授はプリンタから出力したものだとは信じてくれませんでした。「誰かプロフェッショナルの手を借りてレポートを作ったのではないか」と疑われたものです。

阿部川 それは大変でしたね(笑)。

アンドリューさん ええ、まさに黎明(れいめい)期のDTP(デスクトップパブリッシング)でしたね。当時のGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)が、デザインやグラフィックスなどへの関心を高め、やがて現在のキャリアに続く、データベースという考え方に出会います。

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