30代後半になった平林さんは、米国の審判学校で学び直す。20代の若者たちに負ける気がしなかった彼を支えた思いとは
日本のパ・リーグ審判部を退職した平林さんは、再渡米後、審判学校から再出発を始めた。20代前半の米国人の若者たちに、日本からやってきた30代後半の「オジサン」は、どう映っただろうか。
2005年、審判学校卒業後に米国球界復帰を果たすと、2008年にはダブルAクラスのリーグでチーフクルーを務めるまでになった。そんな彼を支えていたのは、学生時代からのハングリー精神と、自分の可能性に対する信念であった──。
丸山 審判学校に再入学してゼロからの再出発。30代後半で若き米国人たちと競うことに、戸惑いはありませんでしたか?
平林 20代の米国人ライバルたちには、「よし、お前たちと勝負してやる」と思っていました。年齢では負けても、体力でも、気力でも、負けると思ったことはないですから。
いまの若い子は日本も米国も同じで、ぜいたくに育っている場合が多い。だから、大したことはないです(笑)。僕は両親が金持ちではなかったし、大学は新聞配達で学費を稼いで卒業しました。みんなが親に仕送りしてもらってサークルに入って遊んでいるときも、僕はアルバイトをしなければなりませんでした。でも今となっては、それがバネになっています。
丸山 また底辺から登らなければならない長い坂路の途中では、先が見えない不安もあることと思います。どのようなことを考えて、日々の試合に臨んできたのでしょうか。
平林 パ・リーグを辞めた後の2年間は「浪人」をしていました。30歳を過ぎてからの2年ですから、そのブランクは大きい。それをマイナスに感じたので、この2年にも価値があると思い込むことにしたのです。
「勝手に思い込む」ことが大事だと思います。「自分がやっていることは、後々、必ず何かに生かされるんだ」と。例えば、浪人の2年間があったから、タイミングよくトリプルAまで昇格できたんだとか、都合良く捉えてしまうんです。
「勝手に思い込む」といえば、メジャーリーグの試合の球審を務めている姿を想像して、自分を鼓舞したりもします。幸い、審判員という職業は、マイナーもメジャーもやることはそれほど違いがないので想像しやすい。目標を強くイメージすることが、僕のパワーの源という気がします。
丸山 第三者から無謀と思われた平林さんの挑戦は、審判員をやりたいからという「純真」が、強烈に後押ししているように見えます。しかし今の30代、40代の多くは、ともすると無我夢中になって挑める「何か」を見付けられないでいるのではないでしょうか。
平林 メジャーの審判員までたどり着けるのは、審判学校を卒業した生徒の、ほんの数パーセントに過ぎません。メジャーのレギュラー審判員は68人しかいないので、それこそ、選手としてメジャーリーガーになること以上の狭き門かもしれません。
審判員の夢を語っても誰も信じてくれませんでした。もしかしたら嫁さんでさえ、「大丈夫なの?」と不安だったかもしれません。でも自分だけは、必ずチャンスはあると信じ切っていました。自分さえ信じていれば、少しずつ門は開かれていくものだと思います。
構成/平山譲
クライス&カンパニー 代表取締役社長
リクルートで人事採用担当を約7年経験後、現社を設立。転職希望者面談数は1万人を超え、その経験と実績に基づいたカウンセリングは業界でも注目されている。「人の根っこのエネルギーを発掘する作業が、われわれの使命」がモットー。著書「キャリアコンサルティング」(翔泳社)
※この連載はWebサイト「転機をチャンスに変えた瞬間」を、サイト運営会社の許可の下、一部修正して転載するものです。データなどは取材時のものです。
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