「知識も経験もなく、ただただシステム開発をしたいという夢だけが先行しているポジティブマンだったので、なかなか派遣先が決まりませんでした。2〜3カ月間、毎月の定例会で、他の同僚が『派遣先でこんな仕事をしています』『あんなものを開発しています』と報告するのを聞きながら、自分だけ『派遣先が決まらないので勉強をしています』と報告するのが心から悔しくて」
ときには派遣先との面談時に、「いったい何ができると思ってここにいるの?」と厳しく詰められ、何も言い返すことができずに悔し涙を飲み込んだこともあった。この苦い経験を経て改めて自分の実力のなさを痛感し、「生き残るために真剣に勉強しなくてはいけない」と決心したという。
ならば、まずは手を動かすことから――このころから尼崎さんはGitHubにアカウントを作成していろいろなソースコードを読み込み、自分でもコードを書いてみる日々を過ごした。また、ちょうどそのころ流行っていたマインクラフトを楽しんでいたこともあり、自宅にサーバを立てて社内に「遊びに来てみてよ」とアナウンスしてみたり、Javaを勉強してプラグインを作ってみたりと、興味の延長線上でできることから取り組んでいった。そうこうするうちに派遣先が決まり、少しずつ実経験を積んでいったという。
ドローンを組み立てて競技会に参加したり、「ATND」をチェックして社外の勉強会に参加したりといった活動も行った。
「楽しみながら勉強していましたが、それを共感できる仲間が欲しかったんです。『こんなもの作ったぞー』と話して、議論したいなという思いがありました。それが結果的に、周囲から、あ、勉強しているな、頑張っているなと思われたのかもしれません」
こうした姿勢が評価されてか、その会社が新たに受託開発事業を開始する際にはメンバーに選ばれ、のちにはリーダー的役割を担うまでになっていった。
「工場内の機器から出力されるテキストや撮影画像を元に、製品の品質チェックを行うシステムを開発しました。当初は3人で始めたプロジェクトでしたが、気付けば10人ほどのメンバーが関わるプロジェクトになっていました」
こうして念願だったシステム開発に携われるようになりめでたしめでたし――と思いきや、話はそこで終わらない。少しずつ、もっとクリエイティブなことに携わりたいという思いが蓄積していったという。
「システムインテグレーターの宿命かもしれませんが、きっちり詰められた仕様書が降りてきて、その通りに作る仕事が中心でした。想定されたものを想定通りに作っていくという感じで、『もっとこうした方がいいんじゃないでしょうか』と声を上げても、通らないことが少なくありませんでした」
いっそ自社開発に舵(かじ)を切ってみてはという提案も却下されてしまったという。
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