懐かしい議論が、論拠も明らかに再び話題になっている。ICTの世界では遅れがちと見られていた東海岸からもたらされた重要メッセージ「STEAM」とは?
MIT Sloan School of Managementの教授であるエリック・ブリニョルフソン氏、アンドリュー・マカフィー氏による著書『機械との競争』(日経BP、2013年2月)は、コンピュータが人間の領域を浸食することで、特に中間層の雇用が減り、雇用は高所得を得られる創造的な仕事と低賃金の肉体労働に二極化すると警告する。
自動車の運転も翻訳もコンピュータがカバーする。ホワイトカラーの仕事は機械に肩代わりされ、人間が勝るのは音楽、ソフトウェア、スポーツといったクリエイティブな仕事と、肉体労働とに集約されるというのだ。
怖ろしい、というより、なつかしい、というのが第一の感想だ。こういう議論は15年前にもさんざん行われていたからだ。経営者がムダなホワイトカラーや中間管理層を切るためにネットやPCを浸透させる、というのが当時の米国における空気感だった。
そのころ、日本でも企業でのネット利用がぼちぼち進んでいたが、その目的はハッキリせず、ITベンダやソフトハウス、通信会社の営業に押される形で恐る恐る導入する会社が多く、投資も本格化していなかった。そんな中で前述の「中抜き」論が勃興したために、ホワイトカラーの危機感をあおり、ネットの普及も勢いをそがれた。
女子高生などの若いデジタル末端ユーザーがガンガンIT機器やオンラインサービスを使いこなし、世界で群を抜いて情報を発信する国になっていたにもかかわらず、企業のネット利用という点では、情報通信白書が示すように、経営者のIT利用偏差値が先進国最下位を記録するというありさまだった。
そんな古いテーマをいまになって新進気鋭のMIT看板教授が持ち出しているのは、ようやく議論できるだけの実証データがそろってきたということなのだろう。
筆者の1人であるブリニョルフソン教授が2000年、MITにeBizセンターを立ち上げた際、当時MITメディアラボに所属していた私は、日本企業を口説いてセンターの設立スポンサーとして参加した。まさにインターネットバブル崩壊前、米国ではIT分野の鼻息が最も荒いころのことだ。その後、MITがある米東海岸はシリコンバレーに代表される西海岸エリアにIT分野で引き離され、十数年経って「ITはヤバいよ」という実証を持ち出してきた形に見える。
本書は警告を発するものの、1811年のラッダイト運動を引き合いに出し、古い仕事が失われても新しい仕事が生まれるというのが経済学の教えだと説く。産業革命の第一ステージ=蒸気機関も、第二ステージ=電気も、多くの労働者を生んだ。産業革命の第三ステージ=コンピュータとネットも長期にはそうだと説く。デジタル技術は人類は豊かにする、というのが基調だ。
その上で本書は米国の教育が停滞していることを批判する。情報化が進んでいない、指導法は何世紀も変わっていない、という指摘だ。MITメディアラボのシーモア・パパート氏ら一派が唱え続けている主張だ。
そこで本書も教育情報化を説くのだが、私が意を強くしたのは、美術、音楽など「ソフトスキル」を身に付ける重要性を語っている点だ。本書ではMITメディアラボから転じたジョン前田氏が、「イノベーション力を高めるにはSTEAM=科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、Art、数学(Mathematics)が重要」としてArt教育をプッシュしていることに言及している。
まさにそれこそ私がMITから日本に戻って10年続けている創造力・表現力を高めるデジタル学習活動のベースだ。
そして、本書のクライマックスが「19の提言」。
米国に対する提言なのだが、そっくり日本にぶつけたい政策集になっている。「その通り!」という事項を並べてみよう。( )内は私の感想だ。
教育に投資し、先生の報酬を増額すべき
(日本はOECD中、公教育支出のGDP比がほぼ最下位。日本こそ投資すべき)
大学教授の終身在職権を剥奪せよ
(よく言った。大学は最も競争が少ない分野。日本もそうすべき。自分のクビを絞めるが)
義務教育の授業時間数を増やせ
(「ゆとって」いる余裕はない)
スキルを持つ労働者の移民を増やせ
(少子化の著しい日本向け政策。女性と外人を生かすほかなし)
起業に関する規制を緩和せよ
(ややこしい認可の廃止は急務)
通信・輸送インフラの強化
(電波開放、運輸規制緩和)
基礎研究への予算を増額せよ
(R&Dで劣っては日本に未来なし)
労働市場の高い流動性を維持せよ
(日本こそ成長戦略でこれを実現すべき。米国は自らの強みを分かっている)
新ネットワークビジネスへの規制を控えよ
(米国が強みをより強くする前に、日本がビジネス環境を整えなければ)
著作権の保護期間を短縮せよ
(これは驚いた。米国が海外に保護期間の延長を求めてきたことに対する重大なアンチテーゼ。IT経済の専門家が唱え始めた意味は大きい。TPP交渉で保護期間延長は重大なテーマになると目されているが、米国の攻勢も一辺倒ではなくなる可能性がある)
中村伊知哉(なかむら・いちや)
慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授。
京都大学経済学部卒業。慶應義塾大学博士(政策・メディア)。
デジタル教科書教材協議会副会長、 デジタルサイネージコンソーシアム理事長、NPO法人CANVAS副理事長、融合研究所代表理事などを兼務。内閣官房知的財産戦略本部、総務省、文部科学省、経済産業省などの委員を務める。1984年、ロックバンド「少年ナイフ」のディレクターを経て郵政省入省。通信・放送融合政策、インターネット政策などを担当。1988年MITメディアラボ客員教授。2002年スタンフォード日本センター研究所長を経て現職。
著書に『デジタル教科書革命』(ソフトバンククリエイティブ、共著)、『デジタルサイネージ戦略』(アスキー・メディアワークス、共著)、『デジタルサイネージ革命』(朝日新聞出版、共著)、『通信と放送の融合のこれから』(翔泳社)、『デジタルのおもちゃ箱』(NTT出版)など。
twitter @ichiyanakamura http://www.ichiya.org/jpn/
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.