米マイクロソフトやYahoo!が積極的な取り組みを始めた「マイクロフォーマット」。ブログ検索でおなじみのテクノラティに、マイクロフォーマットがWeb2.0ブームの真打ちになる可能性を聞いた。
米マイクロソフトやYahoo!が「マイクロフォーマット」への積極的な取り組みを公表したり、ブログ検索でおなじみのテクノラティが主宰している実験サービスサイトのTechnorati Kitchenで、「Microformats Search」が公開されるなど、「Web2.0ブームの真打ち“マイクロフォーマット”がついに表舞台に登場か」と思わせるニュースが相次いでいる。
「マイクロフォーマット=Web2.0の真打ち」などといういい方には、反論があるかもしれない。だが、技術者でない筆者が昨年来のWeb2.0ブームで語られる数々の概念や方法論をふかんして“超ド級”の難解度を持ったキーワードという意味でマイクロフォーマットは、やっぱり真打ち登場なのだ。
これまでのHTMLの要素に、一定のルールにのっとった属性タグを埋め込むことで、ブログのエントリやホームページが、「何について記述しているのか」を、「コンピュータが理解できるようにしようゼ!」というムーブメントがマイクロフォーマットだと理解しているのだが、みんなが自由に好き勝手に書き散らして、更新しまくっているWeb全体を“役に立つ”データベースにしてやろうという、ある意味壮大でスケールの大きな概念だけに、すごいものであることは理解できる。
その先には、セマンティックWeb(参照記事:自由すぎるWebの世界でメタデータは統合できるか)というさらに強力なムーブメントが顔をのぞかせているわけだから、ますますもって真打ち登場なのだ。
とはいえ、「マイクロフォーマットの概念は実にシンプル(参照:About microformats>techonorati)。情報をマークアップするための簡単な定義であり、みんなが情報を共有することで迅速な問題解決を可能にするもの」とテクノラティジャパンの山崎富美氏はいう。なるほど志は理解できる。確かに、ブログなどで、商品やサービスのレビューを書いたら「hReview」というメタ情報を定義しておけば、その情報を求めている人のところにその情報が確実に伝わるだけでなく、それらを収集して再利用しようという際にもかなりの確度で役に立つ。新しいビジネスのニオイを感じずにはいられないのは確かだ。
ただ、筆者にとってこのマイクロフォーマットは、これまで登場してきた数々のWeb2.0的概念や方法論とは、どことなく一線を画す異質な“ニオイ”を感じてしまう。なんというか、後からコンピュータが収集・分類しやすいように、あらかじめコンテンツの属性情報をガチガチに決めておいて、みんなでそれを利用しましょう!という厳格度120%の考え方が、なんか違うもんネ、という感じだ。
誤解をしないでほしいのは、決してマイクロフォーマットを否定しているのではなく、これまで慣れ親しんできたインターネット特有の“ちょっといいかげん。でも最終的にはなんとなくまとまる”文化と異なる方向性で進んでいるという点に大いなる興味を抱いてしまう。
まあ、マイクロフォーマットが普及して、情報発信者の多くがそれを利用すれば、メチャ便利になるだろうことは容易に想像がつくし、もしかしたら既存の枠組みの中で情報をアグリゲートするビジネスが成り立たなくなる可能性だってあるわけだから、革命的にすごいことなのは理解できる。何にもまして、ネット大好き人間としては、この仕組みを利用してたくさんのマッシュアッパーが登場し、ユニークなサービスが生まれるのを切に望んでいるのは、皆さんと同じ。
そんな“厳格”な情報分類の試みであるマイクロフォーマットと対極にあると感じるのが、「フォークソノミー(参照記事:集合知を独自に検索して真実を導く、kizasi)」だ。ご存じのように、フォーク(民衆)+タクソノミー(分類学)の合成語であるこの方法論は、「自分の発信する情報には“感性”でもって属性付けてネ」という、極めてあなた任せな態度が対極的であり、ブログ検索のテクノラティや動画共有サイトのYou Tubeなどで「タグ」という形で実際に稼働しているのはご存じのとおり。
「情報を的確に分類して必要とされる情報を閲覧者の元に確実に送り届ける」という意味では、マイクロフォーマットもフォークソノミーも、その精神は同じなのだろうが、そこで行われる方法論というかアプローチがまったく異なっているわけだ。
まあ、どっちが良い悪いではないのだが、情報発信者の“感性”に委ねられる部分の多い「タグ」の方が、なんとなく広がりが感じられ、その先に情報の沃野が広がっていそうな気がするのは筆者の勝手な思い込みであろうか。
とはいえ、「タグ」のように、厳格な決まり事がなく自由度の高い分類ルールというのは、それを設定する側からすると、「どんなタグを何個くらい付けたらいいの?」などという素朴な疑問も起きるわけで、You Tube動画のタグや、Last.fmで流れてくる楽曲に付けられたタグを見ていると、「タグ」付けの感性は、なるほど人により異なるもんだワイなどと妙に納得したりする(参照記事:Webの情報を関連付けるタグで管理・検索を便利に)。
例えば、米国西海岸系のさわやかで軽いロックミュージックに、「driving」と付ける人もいれば、「sweet」と付ける人もいるわけで、同じ楽曲が「ドライブに最適な音楽」と「甘い感じの音楽」に分類されるのも、オイオイそれでいいのかネ、と感じてしまうのだ。中には、「my dad likes this」などといったタグもあり、もう勝手にして!という思いだ。
そのようなわけだから、有望なビジネスたり得る方法論という意味では、分類が厳格に規定されているマイクロフォーマットに軍配が上がるのかもしれないし、多くのWeb2.0先進的ご意見リーダーたちが、こぞってマイクロフォーマットに傾倒している状況を見ればそれもうなずける。
しかし、どうだろう、フォークソノミーな「タグ」にしてもマイクロフォーマットにしても、情報を提供する側が、それらの存在を大きく意識して能動的に振る舞わなければ、良質の情報が出てこないわけで、米国での動きはともかく、ここ日本において、900万ブロガーにそれを求めるのは、ネット業界を挙げての一大プロパガンダが必要なのでは、と要らぬ心配をする。
テクノラティジャパンでは、「タグ検索」という、自分が求めている情報に出会える可能性の高いブログ検索機能が提供されているにもかかわらず、それでヒットするブログ記事の数が極端に少ないのは、ブロガーの間に「タグ」付け意識が低いことの表れであろう。主要なブログサービス中には、「タグ機能」を追加するところも出てきてはいるのだが、それを利用している人は、まだまだ多いとはいえないのが実情だ。そんな状況だけに、山崎氏は「タグを付ける人がもっと増えてほしい」と願いを込める。
人々はブログという手軽な情報発信の手段を得て、ネットに参加する喜びを覚えた。そのヨロコビの先には、オノレの生き様を記録したり、自己やその生活の一部をさらけ出すことで、コミュニケーションが生まれたり、コミュニティが形成されることへの充実感がある。
それら、すっかり定着した行動に、もう一手間加えて、タグを付けろ、マイクロフォーマットで分類しろというのは、それなりのインセンティブが必要になると思うのだ。そのインセンティブが何なのかは分からない。アフィリエイトなのか、ネット社会へ貢献することへの満足度なのか……。
1ブロガーとしての意見をいわせてもらうと、日々、ブログを書くだけでそれなりの労力を使ってしまっているだけに、タグ付けやマイクロフォーマットといった付加的な作業は、「Webちらし、国産RSSリーダーのいきさつと人工知能化の野望」で紹介したような若者が人工知能的な仕組みを早急に構築してくれて、コンピュータが勝手にやってくれるというのが理想なのだがなあ。
まあ、将来どのような方法論が主流になるのかは分からないが、日々ネットの中で生まれ、飛び交う膨大な情報を、「検索だけでは手ぬるいぞ! もっともっと有効に活用する方法があるはずだ」という考え方は、皆共通して持っているわけだから、ネットの潮流の向かう先は、同床異夢(どうしょういむ)ならぬ異床同夢といったところか。
著者の山崎潤一郎氏は、テクノロジ系にとどまらず、株式、書評、エッセイなど広範囲なフィールドで活躍。独自の着眼点と取材を中心に構成された文章には定評がある。
「山崎潤一郎のネットで流行るものII」
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