さて、モバイルルータの最適解が出たところで、話は電子出版へと移る。iPadの魅力と威力がそうさせたのかどうかは分からないが、それまで静観していた(ように見えた)出版業界も突然行動を起こし始めた。
衝撃はいきなり来た。講談社は、当代きっての人気作家、京極夏彦氏の新刊「死ねばいいのに」を書籍アプリ化してiPadの発売にぶつけてきた。今後も、五木寛之氏の「親鸞」などを投入するというから驚きの本気モード炸裂だ。
大物作家がいきなり降臨したことで、何だかいろいろな意味で、この書籍アプリが電子書籍の“メートル原器”になりそうな雰囲気だ。「死ねばいいのに」は、紙の本が1785円でアプリが900円(セール期間は700円)だが、皮膚感覚として、売価はまあ妥当なセンかなという印象。
iPadアプリにおける京極氏の印税がどの程度に設定されているのか分からないが、仮に、Appleに30%を“抜かれた”残りを、アプリの開発会社、講談社、京極氏で折半すると考えると、著者印税は率で2倍以上、金額ベースでも33円も上昇する(表参照)。今回のように、売価が下がり、出版社が紙本と同様に中間でマージンを抜いたとしても、電子出版というビジネスは著者にとって印税率の上昇を約束してくれるものになる。いつまでもネットアレルギーむき出しで、「出版文化を滅ぼすな」とか「Googleブック検索はけしからん」とかやっている場合ではないと思う。
書籍 | 流通 | 印刷 | 出版社 | 著者 |
---|---|---|---|---|
1667円 | \500 | \500 | \500 | \167 |
30% | 30% | 30% | 10% | |
iPadアプリ | Apple | 開発会社 | 出版社 | 著者 |
---|---|---|---|---|
857円 | \257 | \200 | \200 | \200 |
30% | 23.3% | 23.3% | 23.3% | |
※注)出版における原価構成として、ざっくりと3割が流通経費、3割が印刷費、3割が編集費・宣伝費などの版元経費、1割が印税といわれている。 表1 印税収入の分配 |
ここに示した数字は、アプリ開発会社がレベニューシェアで参画していると仮定して計算した。配信ビジネスにおけるステークホルダー間の金銭的条件は、レベニューシェアが最も合理的だと思うからだ。紙の本のように取次に本を納入した次の月に代金の一部が入金されるといった、ミニマムギャランティの考え方が通用しない世界だけに、ステークホルダー全員でリスクを分かち合う考え方が必要になる。それに、「App Storeの運営方針は第2ステージへ」でも書いたとおり、講談社や京極氏ほどのビッグネームになると、Appleとの間で特別な交渉が行われ、7対3よりも有利な条件を引き出している可能性もある。というか、僕がプロデューサーなら必ず交渉する。
ただ、今回のように人気作家の作品であれば、ステークホルダー全員の合意も得やすいだろうが、そうでない場合は、出版社が、開発会社や著者に対してミニマムギャランティを保証するような仕組みが必要になるのかもしれない。出版社としては、それくらいのことをしないと、電子出版時代に存在価値を示すことができない。
日本電子書籍出版社協会の中心的存在である講談社のiPadアプリへのいち早い対応は、今後参入してくるアマゾンに対する牽制の意味もあるのだろう。App Storeでのアプリの売価は、段階的設定ではあるが、アプリの供給側が自由に決められるエージェンシーモデルだ。米国でKindleストアが開始された当初は版元に価格決定権がなかっただけに、日本でそれはさせないぞ、というメッセージであろう。
インディ開発者もiPad向けの電子書籍ビジネスに意欲を燃やしている。ラングの大江和久取締役もその1人である。大江氏のiPad向け電子書籍に対するアプローチも講談社同様、書籍アプリとしてパッケージ化したもの。
Appleへ申請中の「深呼吸する言葉」という一種の詩集・写真集系の書籍アプリを見せてもらった。このアプリは「深呼吸する言葉・きつかわゆきお」というソーシャル系の詩集サイトをiPadに対応させたものだ。
このアプリの構築には、iBookにも採用された電子ブック向けのフォーマットとして有名なEPUBは使われておらず「HTMLベースで作られている」(大江氏)という。その理由として大江氏は「現状のEPUBのフォーマットは、あくまでも静的な書籍を念頭に置いたもの」であり、「凝った仕掛けが難しい」という。
大江氏は、詩が縦書きで表示される「深呼吸する言葉」の画面を示しつつ「EPUBは、現時点ではこのような縦書きには対応しておらず、文字がフェードイン・フェードアウトしたり写真がオーバーラップして切り替わるような凝ったものは作れない」と教えてくれた。ちなみに、縦書きは、HTMLを独自に拡張して実現しているそうだ。
確かに、せっかくのマルチメディア端末であるiPad上に表示する本を、あたかも書籍をスキャンしたかのごとき静的なコンテンツとしてそのまま表示するのも、端末の能力を生かしていないようでもったいない。
日本の雑誌も続々とiPadに対応しているが、PDFを表示するだけの静的な電子ブックが大半であり、ちょっと踏み込んであったとしても、タップして動画を再生させるくらいなものだ。PDF+動画というのは、素材さえあれば、ある意味リソースをかけないで派手に見せることができる。だから、まあ、この方向に流れるのは分かるのだが、どこか安易な印象がつきまとう。
しかし、米国の「TIME Magazine」「GQ Magazine」「WIRED」といった雑誌は、iPadアプリとしてしっかりと作り込まれている。動画はもちろんのこと、縦表示と横表示でコンテンツが変わるなど、どこから見ても純粋なアプリだ。PDFビューワーの域を出ていない日本の雑誌アプリは、そもそも、いくらiPadが9.7インチの画面を持っているとはいえ、雑誌のPDFを読む場合、老眼が進行した僕の目には、その小さな文字はあまりにもきつい。やはりピンチして拡大しないと読めないのだ。
もちろん米国系雑誌アプリは、それ用に作り込まれているので、最適な文字の大きさで表示される。これを見たある雑誌社の幹部は、「うちも含めて日本の雑誌で、電子ブックにこれだけのリソースを割けるところはない」とため息交じりに肩を落とした。
何もすべての電子ブックがこのような凝った作りにする必要はないと思うが、iPadのような端末に向けて提供する電子ブックであれば、中にはこのような一歩踏み込んだユーザー体験を提供することも必要になってくるだろう。 ただ、さすがの米国系雑誌アプリも、例えば特集記事だけを99セントで販売するといった、“雑誌”というパッケージを解体して販売するマイクロコンテンツ化ビジネスは行っていないようだ。これが始まると、雑誌界に衝撃が走るのだろうなあ。
大江氏はこのような電子ブックの制作に関して「電子ブックの可能性を追いかけ、そこに経済的な合理性が見いだせるのであれば、編集者やデザイナーといった出版系の人が、我々のようなエンジニアとしっかりとタッグを組む必要が生じるはず」と力説する。
出版系の人が必ずプログラミングを学ぶ必要はないとは思うが、「これを利用すると何ができて何ができない」といったITリテラシーというか、技術的な判断能力くらいは身に付けた方がよさそうだ。確かに、自身がプログラマーではない筆者も、アプリのプロデュースを通じてそれは痛切に感じている。
多種多様なアプリのプラットフォームとしてだけではなく、本格的な電子ブック端末としても利用範囲が一気に広がったiPad。今後、このジョブズの奇跡が産み出した端末の上で、百花繚乱(りょうらん)、予想もしないビジネスが生まれるかと思うとワクワクする。まさに世界が変わろうとしているその瞬間に立ち会えた喜びを満喫している。
山崎潤一郎
音楽制作業に従事しインディレーベルを主宰する傍ら、IT系のライター稼業もこなす蟹座のO型。iPhoneアプリでメロトロンを再現した「Manetron」、ハモンドオルガンを再現した「Pocket Organ C3B3」の開発者でもある。音楽趣味はプログレ。近著に、『ケータイ料金は半額になる!』(講談社)、『iPhoneアプリで週末起業』(中経出版)がある。TwitterID: yamasaki9999
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